先日、近所のスーパーにセルフレジが導入されました。並ばなくていい。店員さんに気を遣わなくていい。袋詰めも自分のペースでできる。どう考えても便利なはずなのに、家に帰ってから何となく物足りない気持ちが残りました。「あれ、今日って誰とも話してないな」と気づいたのは、夕飯を食べ終わったあとのことです。

思い返せば、便利になるたびに何かが少しずつなくなっていったような気がします。便利さは、私たちの暮らしに多くのものを足してくれました。でも同時に、気づかないうちに何かを引いてもいるのかもしれません。
コンビニのATMができてから、銀行の窓口に行く機会はほとんどなくなりました。ネット通販が当たり前になってから、商店街をぶらぶら歩く時間が減りました。スマホ1つで地図も、レシピも、映画のチケットも手に入るようになってから、「わからないことを誰かに聞く」という経験も少なくなりました。
便利さが積み重なるほど、暮らしから摩擦がなくなっていきます。摩擦がなくなるのは、確かに楽です。でも、人生の手触りのようなものまで、一緒に削れていくような感覚があります。
心理学には「ヘドニック・トレッドミル」という考え方があります。人はよい出来事があっても、その幸福感にはすぐ慣れ、やがて元の状態へ戻っていくというものです。
新しいスマートフォンを手に入れた日の高揚感。最初の一週間は触るたびにうれしいのに、一か月もすると、それが当たり前になります。便利な機能にもすぐ慣れ、いつしか「あること」が普通になり、「ないこと」のほうが不便に感じるようになります。
つまり、人は便利さには驚くほど早く慣れます。しかし、その便利さが与えてくれる幸福感は、それほど長く続きません。
もうひとつ、気になっていることがあります。
便利になるほど、私たちは多くのものを選べるようになりました。何を食べるか、どこで買うか、どのサービスを使うか、誰と連絡を取るか。昔は選べなかったものまで、今は自由に選べます。
ところが、その自由が私たちを疲れさせることがあります。
心理学者バリー・シュワルツは、選択肢が増えるほど満足度が下がることがある現象を「選択のパラドックス」と呼びました。選んだあとで「もっとよいものがあったのではないか」と考えてしまうからです。
昔ながらの定食屋で「本日のランチ」を頼む日は迷う時間がありません。一方で、何十種類ものメニューが並ぶ店では、食べ終わってからも「あっちにすればよかった」と考えてしまうことがあります。選べることは豊かさですが、必ずしも満足につながるわけではありません。
もちろん、便利さそのものを否定したいわけではありません。
洗濯機があるから、川で洗濯する必要はありません。電子レンジがあるから、疲れた夜でも温かい食事を用意できます。便利さが人間の暮らしを支え、生活の質を大きく向上させてきたことは間違いありません。
問題は、便利さを幸福そのものだと思ってしまうことなのかもしれません。
便利さは、幸福そのものではなく、幸福のための「余白」を生み出してくれるものです。その余白を何で満たすのかは、私たち自身に委ねられています。
そして、人は物だけではなく、人とのつながりや何気ない交流からも幸福を感じます。多くの幸福研究でも、良好な人間関係は幸福感を支える重要な要素の一つとされています。
セルフレジの話に戻ります。
あの日、私が感じた物足りなさの正体は、きっと会話でした。
レジの店員さんが「今日は暑いですね」と声をかけてくれること。「袋は一枚で大丈夫ですか」と確認してくれること。ほんの数十秒のやり取りなのに、それは社会と自分がゆるやかにつながっていることを確かめる、小さな接点だったのでしょう。
便利さが削ったのは、手間だけではありません。偶然生まれる会話や、人と人とのささやかなつながりまで、少しずつ減らしてしまったのかもしれません。
幸福感が増えない理由は、一つではないでしょう。でも少なくとも、便利さと幸福はイコールではありません。
便利なものを上手に使いながら、それでも少しだけ手間を選んでみる。店員さんと一言だけ言葉を交わしてみる。遠回りをして知らない道を歩いてみる。スマホを置いて窓の外を眺めてみる。
そんな小さな非効率が、忙しい毎日の中で見落としていた景色や、人とのつながりを思い出させてくれることがあります。
便利さは人生を豊かにする道具です。でも、人生そのものを豊かにするのは、その道具で生まれた時間を何に使い、誰と分かち合うかです。
幸福は、便利さの先に自動的に待っているものではありません。自分の手で育てていくものなのだと、セルフレジを通ったあの日、私は少しだけ教えられた気がしました。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
また次の機会にお会いしましょう。


