みなさまごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。
「普通に考えてそうでしょ」と言われるたびに、私は少しだけ首をかしげたくなります。

普通って、何でしょうか。
ある日、友人と話していたら「えっ、mayoさんそれ知らないの?普通みんな知ってるよー!」と言われました。内容はもう忘れてしまいましたが、そのときの「普通じゃない?」という言葉だけがなぜかずっと頭に残っています。
知らないこと、できないこと、やらないこと。それが「普通」から外れているとき、人はどこか申し訳なさそうな顔をしなければならない空気があります。まるで超えなければいけない「ハードル」が目の前にあるかのように。でも考えてみれば、その「普通」というものを最初に決めた人は、いったい誰なのでしょうか。
たとえば「電車の中では静かにする」というルール。これは、みんなが限られた空間で心地よく過ごすための思いやりから生まれた、分かりやすい「普通」です。でも「普通、このくらいの年齢なら結婚してるよね」「普通、朝ごはんはパンかご飯をちゃんと食べるよね」「普通、みんなの前では泣かないで我慢するよね」となると、だんだん怪しくなってきます。
静かにすることで生まれた普通もあれば、誰かの家庭環境で育まれた普通もあり、テレビや雑誌が「これがスタンダードです」と発信し続けた結果できあがった普通もある。私たちが口にする「普通」という言葉は、実はものすごくいろんなところから来ているのです。
にもかかわらず、「普通」という言葉はひとつのかたまりとして使われます。まるでどこかに「普通の基準書」があって、全人類がそれに署名したかのように。でも私はそんな書類にサインした記憶がありません。あなたには、そんな記憶はありますか?
「普通」が厄介なのは、それが正しさと結びつきやすいことだと思います。
「普通に考えれば」という枕詞には、「そうでないあなたはちょっとおかしい」というメッセージがひそんでいることがあります。意地悪で言っているわけではなく、むしろ無意識に。それがまた難しいところで、指摘すると「そんなつもりじゃなかったのに」となる。言った側も言われた側も、どうにもモヤモヤが残ります。
私自身も、きっと誰かに「普通はね」と言ったことがあるはずです。そのときの私は、自分の物差しを相手に押し当てていたのだと、後になって気づくことがあります。普通というのは、自分の経験や環境でできた、とても個人的なものさしなのでしょう。
もちろん、「普通」がまったく必要ないとは思いません。社会で一緒に暮らしていくためには、ある程度の共通の感覚が必要です。ルールや礼儀というかたちで「みんながなんとなく守るもの」があるからこそ、毎日がスムーズに回っている部分もあります。
その一方で、それとは別の場所にある「普通」、つまり価値観や生き方、感じ方の領域における「普通」については、もう少しゆるくてもいいのではないかと思うのです。
心の中の価値観にまで「こうあるべき」という目に見えない正しさを求めてしまうから、私たちは息苦しくなるのかもしれません。
遅刻をしないために、1時間も2時間も早くから行動している人がいます。体調と相談しながら、カフェに入らずに外をふらふらと歩き、自分なりの歩幅でそっと時間を整えている人がいます。
朝が苦手な人、人前で話すのが得意じゃない人。結婚に興味がない人、子どもが苦手な人、大勢でいるより一人のほうが好きな人。
そういった「普通じゃないかもしれない」ことを抱えながら、それでも自分なりに毎日を生きている人たちが、たくさんいます。そしてそれは、決しておかしなことではありません。
「普通」のハードルは、誰かが決めたのではなく、気づいたらそこにあった、というのが正直なところかもしれません。長い時間をかけて、たくさんの人の「うちではそうだった」「テレビでそう言っていた」「スマホの画面で見かけた」「学校でそう教わった」が積み重なって、気づけばそれが「普通」という名前を持つようになったのかもしれません。
だとすれば、「普通」は固定されたものではなく、時代とともに、場所とともに、人とともに変わっていくものでもあるはずです。
私がいまできることは、自分の「普通」が誰かの「普通」と違っても、それをすぐにどちらかの問題にしないことかな、と思っています。「あ、そうなんだ。私とは違うんだな」と、まずそっと受け取る。それだけで、ずいぶん会話が変わる気がするのです。
「普通じゃないかもしれないけど」と前置きしてから話す人がいます。そのひと言に、どこか申し訳なさが滲んでいて、聞くたびに少しだけ切なくなります。
普通じゃなくていいです。むしろ、その人らしさがあるからこそ、話はおもしろくなる。私はそう思っています。たぶんこれも、誰かにとっては普通ではないのかもしれません。
でも、それでいい。
あなたの「普通」は、誰かの「普通」と違っていて当たり前です。
だからこそ、比べるよりも、理解しようとすること。決めつけるよりも、耳を傾けること。
そんなふうに手をつなげる人が少しずつ増えていけば、「普通」という言葉はいつしか、人を縛る鎖ではなく、お互いの心を通わせる温かい入り口になっていくのかもしれません。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
また次の機会にお会いしましょう。


