みなさまごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。
夜、なんとなく開いたSNSのタイムライン。そこには恋人とのディナー、資格取得の報告、マイホームの内見レポートが並んでいます。それを見て「いいね」を押しながら、心のどこかがずんと重くなる。幸せになりたいはずなのに、幸せそうな誰かを見るたびに疲れてしまう。そんな経験はありませんか。

実は、以前のわたしがそうでした。恋愛も仕事も友人関係も、世間の「ちゃんとしている」に合わせようと無理をして過ごしていた時期があります。ふと「わたしは何のために頑張っているんだろう」と分からなくなった瞬間がありました。このコラムでは、そんな「幸せの型」に疲れてしまった経験と、そこから少しずつ自分のペースを取り戻していった過程をお話しします。
「幸せの型」は、いつのまにか刷り込まれている
就職して、恋人ができて、結婚して、家を持って、子どもを育てて――。物心つく前から、なんとなくそういう順番で人生が進んでいくものだと教わってきた気がします。学校でも、家族の会話でも、テレビドラマでも、幸せの形はいつも同じテンプレートで描かれていました。
さらにSNSが加わったことで、その型はより具体的で、より比較しやすいものになったように感じます。友人の結婚報告、同期の昇進、誰かの海外旅行の写真。ひとつひとつは祝福すべき出来事のはずなのに、自分の状況と重ねてしまうと、いつのまにか「自分はまだ達成できていない項目リスト」のように見えてくるのです。
しかも厄介なのは、その型が誰か一人から押しつけられたものではないという点です。親世代の価値観、就職活動で聞かされた「安定」というキーワード、SNSのアルゴリズムがおすすめしてくる「うまくいっている人たち」の投稿。いろいろな声が少しずつ積み重なって、気づけば自分の中に「これができていないと幸せとは言えない」という基準がびっしりと出来上がっていました。誰が決めたのかも分からないのに、いつのまにか採点者は自分自身になっていたのです。
頑張るほど、自分の気持ちから遠ざかる違和感
わたしは一時期、そのリストを埋めることに必死になっていました。資格を取り、副業を始め、休日も予定で埋め、恋愛も「ちゃんとした関係」を演じようとしていました。傍から見れば充実しているように映っていたと思います。
けれど、ひとつ項目を達成しても、心が満たされる感覚は長く続きませんでした。むしろ「次はこれもやらなきゃ」という焦りがすぐに湧いてきて、達成感よりも疲労感のほうが濃く残る。頑張れば頑張るほど、幸せに近づくどころか、自分の気持ちから遠ざかっていくような違和感がありました。今思えば、それはわたしが望んだ幸せではなく、誰かが決めた「型」を埋める作業だったのだと思います。
友人に「最近どう?」と聞かれるたびに、近況をうまく報告できる自分でいなければいけないような気がして、無意識に話す内容を選んでいたことも覚えています。充実している部分だけを切り取って話し、しんどさやモヤモヤは飲み込む。そうしているうちに、自分が本当は何を感じているのかすら、自分でもよく分からなくなっていきました。
「普通の幸せ」の呪縛に気づいた、ある夜の会話
転機になったのは、何気ない夜に友人と交わした会話でした。友人が「普通に幸せになりたいだけなのに、それが一番難しいよね」とぽつりと言ったのです。その一言で、わたしはずっと自分を苦しめていたのが「普通」という、誰も明確に定義できない基準だったことに気づきました。
考えてみれば、「普通の幸せ」と言うとき、わたしたちはそれぞれ全く違うイメージを思い浮かべています。にもかかわらず、まるで共通の正解があるかのように振る舞い、そこから外れることを怖れている。この矛盾に気づいたとき、肩の力がすっと抜けたのを覚えています。幸せの型に合わせることと、実際に自分が幸せを感じることは、まったく別の話だったのです。
同時に、これまで「達成できていない」と感じていた項目の多くが、そもそもわたし自身が心から望んでいたことではなかったことにも気づきました。周りがそう言うから、なんとなくそうあるべきだと思い込んでいただけで、手に入れたところできっと満足はしなかっただろうと思います。自分を苦しめていた基準の正体が分かると、不思議とその基準に振り回される必要はないのだと思えるようになりました。
自分のものさしを取り戻す、小さな2つの習慣
そこから、大げさな決意ではなく、小さな習慣を変えることから始めました。まず、比較して苦しくなる投稿が多いアカウントは、思い切ってミュートしました。情報を遮断するというより、自分の気持ちを守るための選択です。
次に、一日の終わりに「今日、心が軽くなった瞬間」をひとつだけ書き出す習慣を作りました。仕事の成果や誰かに褒められたことではなく、コーヒーの香りが良かった、電車の窓から夕日が見えた、といった些細なことばかりでした。けれど続けるうちに、自分が本当に心地よいと感じるものが、世間が言う「幸せの条件」とはかなり違うことが見えてきたのです。誰かの型を採点基準にするのをやめ、自分の感覚を基準にし始めたことが、いちばん大きな変化だったと思います。
「型」から自由になった先にある、自分だけの幸せ
今の事業所を利用するようになり、「うまく話さなきゃ」と気を張らなくても自然に会話を先導してくれる安心感に触れてから、ようやく「世間の普通」に振り回されない自分になれた気がします。
今のわたしは、まだ何かを達成し続けているわけではありません。恋人がいない時期もありますし、周りと比べれば「普通」から外れていることも多いと思います。けれど以前のような、常に何かに追われている感覚は薄れました。
幸せになりたいという気持ちそのものは、間違っていません。苦しかったのは、その気持ちを他人の型に当てはめようとしていたからだと思います。もし今、誰かの幸せそうな投稿を見て疲れてしまうことがあるなら、それはあなたが冷たい人間だからでも、努力が足りないからでもありません。ただ、自分のものさしをまだ見つけている途中なだけかもしれません。
型を脱いだ先にある幸せは、地味で、誰にも自慢できないような小さなものかもしれません。それでも、それは間違いなく自分自身のものです。今日という一日の中に、あなただけの「心が軽くなる瞬間」を、ひとつ見つけてみてください。
あなたの日々が、少しでも心地よいものになりますように。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


