みなさまごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。
胃袋が一番正直に、季節を知っている。
そんな一瞬を切り取ってみました。
——たけのこの呪縛や、いちごの見栄に振り回される春の話です。
第一章 たけのこご飯の呪縛

春の訪れを、カレンダーより先に教えてくれるのは、近所のスーパーの野菜売り場だ。
どこか土くさい、ごつごつとした塊が山積みになった瞬間、「あ、来た」と思う。 たけのこである。
幼いころ、母がたけのこご飯を炊く日は、台所がまるで別の場所になった。いつもの白いガスレンジが、どこか特別な厨房に変わるような感覚だ。
出汁と醤油と、何か青くて清々しい香りが家中に広がって、 学校から帰ってきた玄関先でその匂いを嗅いだだけで、 その日一日の疲れが全部ふっとんだ。
ランドセルを放り出す速さが、通常の三倍になっていたと思う。 勉強道具の入ったランドセルが、たけのこご飯の前では完全に敗北していた。
「たけのこご飯の日は、おかわりの回数で春の本気度がわかる」——これは我が家の不文律(なんとなく決まっていたルール)だった。二杯は「まあまあの春」、三杯は「本格的な春」、そして四杯は「春、大優勝」である。
大人になった今も、その刷り込みは健在だ。 四月になると、なぜか無性にたけのこご飯が食べたくなる。
「春だから」という理由だけで土日を費やして米を研ぎ、 だし昆布を水に浸し、たけのこを米ぬかと一緒に下茹でする。
あの手間こそが春の儀式だと、今では思っている。
問題は、下茹でに一時間かかるという事実だ。 鍋の前で腕を組みながら、ぐつぐつと煮立つたけのこをじっと見守る。
このとき、自分が何をしているのか、ふと我に返ることがある。
平日はコンビニのおにぎりで昼食を済ませる人間が、 休日になると突然「米ぬかで一時間」の生活を始めるのだ。
人間の二面性というのは、春になると特に顕著になる。
冷凍の水煮たけのこを使えば十五分で済む、ということはわかっている。
でもそれをやってしまったら何かが終わる気がして、今年も米ぬかを買いに行った。
近所のスーパーで「米ぬかってどこですか」と店員さんに聞いたとき、少し誇らしい気持ちになったのは内緒だ。
炊き上がったたけのこご飯の蓋を開ける瞬間だけは、毎年ちゃんと感動する。
白い湯気とともに立ち上るあの香りを嗅ぐと、 玄関でランドセルを放り投げていたあの春に、すっと引き戻される。
一時間の下茹でも、米ぬかを探し回ったことも、全部ペイできる瞬間だ。
それがわかっているから、来年もきっと米ぬかを買いに行く。
人間は学習しない生き物である。少なくとも、春に関しては。
第二章 いちごと、見栄の話

春に食べたいものといえば、いちごの話を外すわけにはいかない。
ただし、わたしのいちごへの執着は、純粋な食欲というより、少しだけ「見栄」が混ざっている気がして、毎年ひそかに反省している。
反省するだけで、やめないのだが。
三月の終わりごろ、カフェのメニューに「春限定いちごパフェ」と書いてあると、頼まないわけにはいかない空気が生まれる。
1,900円。ためらう。三秒ためらう。でも頼む。
この三秒間のせめぎ合いを、わたしは毎年経験している。
学習していないのは、たけのこだけの話ではなかった。
運ばれてきたパフェを、まず七秒間写真に撮る。角度を変えて三枚。ちょっと引いて二枚。これが終わるまで、スプーンには触れない。いちごの赤と生クリームの白と、テーブルの木目をいかに美しく収めるか。その間、向かいに座った友人はずっと自分のケーキを食べている。
肝心のお味は——たいてい「おいしい」で終わる。
もう少し解像度の高い感想を持てないものかと、毎年思う。
甘酸っぱくて、クリームがなめらかで、おいしい。
以上。語彙力がいちごの前では完全に溶ける。
1,900円の感想が「おいしい」四文字というのは、コスパとしてどうなのかとたまに考えるが、それでいちごパフェをやめようとは思わない。
「おいしい」は究極の褒め言葉でもある、ということにしている。
それでも、いちごが食卓に並ぶ春は、なにかが少し華やいでいる。
練乳をかけて、ヘタのそばの白い部分を無駄にしないよう丁寧に食べる。
ただそれだけのことなのに、窓から差し込む光がやわらかく感じて、「ああ、生きていてよかった」などとおおげさなことを考えたりする。
いちごには、人を一瞬だけ詩人にさせる何かがある。
ちなみに、スーパーで安売りしているいちごをパックごと買って、テレビを見ながら無心で食べるときの幸福感も、パフェに決して引けをとらない。そちらは写真を撮らない分、スプーンを持つまでのタイムラグもゼロだ。
コスパは圧倒的にこちらに軍配が上がる。
それでもカフェのパフェを頼んでしまうのは、たぶん「春」という気分に、1,900円を払っているのだと思う。季節って、高い。
第三章 花見弁当という名のロマン

春の食べものを語るうえで、花見弁当は別格だ。 味ではなく、「あの場所で食べる」という体験ごと、 ひとつの料理になっている。
言い換えると、同じ唐揚げでも、桜の木の下で食べると三割増しくらいうまい。
これは気のせいではなく、科学的に証明されるべき現象だと思っている。
花見の計画を立てるとき、まず「場所取り」という名の修羅場がある。
前日の夜から場所を確保する猛者がいる一方で、 当日の朝に「ちょっと早起きすれば大丈夫でしょ」と楽観する人間がいる。
後者がわたしだ。そして毎年、ちょうどいいスペースがどこにもなく、 木と木の間の謎の細長い場所に、斜めにシートを広げるはめになる。
桜の真下でも何でもない。でも「まあいいか」となる。 それでも花見は成立するから不思議だ。
友人と「何持ってく?」という相談をすると、必ず誰かひとりが張り切りすぎる。唐揚げ、卵焼き、おにぎりの堅実派のなかに、ひとりだけ「手作りのちらし寿司持っていく!」と宣言する人が現れる。毎年いる。引き止めるのも野暮なので、みんな「楽しみ〜!」と言う。
当日、風に桜の花びらが舞い散るなか、ちらし寿司の蓋を開けた瞬間に、ひとひら、ふたひらと降り積もる。
「風流だね」と誰かが言う。全員が笑う。
食べものの上に花びらが落ちても笑って済ませられるのは、 花見の時間だけの特権だ。
普段の食卓だったら「ちょっと!」となるところが、 桜の木の下だと「趣がある」になる。
文脈というのは偉大である。
ビールを飲みながら、たいして面白くもない話で大笑いして、気がつくと空が薄紫になっている。
お腹も心もいっぱいになって、帰り道に「来年もやろうね」と言う。
それは毎年言っている言葉なのに、毎年初めて言うような気持ちになる。 花見弁当の本当のおかずは、たぶん、その時間そのものなのだと思う。
余談だが、翌日の花見の残り物処理もなかなか趣深い。
冷蔵庫を開けると、昨日の戦場の名残りが整然と並んでいる。
すっかり固くなったおにぎりも、翌朝レンジで温め直せばそれなりにうまい。
ちらし寿司は翌日になるとご飯が固まって、もはや別の食べものになっている。
でも食べる。春なので。
〜 おわりに 〜
春に食べたいものを三つ挙げて、改めて気づいたことがある。
たけのこご飯は下茹でに一時間かかる。
いちごパフェは1,900円する。
花見弁当は場所取りという前哨戦がある。
つまり春の食べものというのは、どれも「ちょっとだけ面倒くさい」のだ。
それなのに毎年懲りずに繰り返すのだから、春というのはつくづく、人を少しおかしくさせる季節である。
などと原稿にまとめながら、ふと我に返った。
今日はもう十一時半。
外は晴れていて、どこかから土の匂いがする。
冷蔵庫を開けると、昨日の残りのカレーが鎮座していた。
たけのこも、いちごも、桜も、関係なかった。 今日の春は、カレーだ。
——それでいい春もある、と思うことにした。
以上、春のちょっとしたひとときでした。
また次の機会にお会いしましょう。


