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「普通」という言葉に振り回された僕が、その正体に気づくまで

趣味・日記
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みなさまごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。

「普通に就職して、普通に結婚して、普通に家庭を持つ」

僕は就活中、そんな言葉を何度も口にしていました。でも今振り返ると、その「普通」が具体的に何を指しているのか、自分でもまったく説明できませんでした。友人との会話でも、家族との食卓でも、「まあ普通に考えたらそうだよね」という一言が、いつも会話の締めくくりに使われていたように思います。

でも、その「普通」を誰かに説明しようとすると、途端に言葉に詰まってしまう。そんな経験、皆さんにもないでしょうか。「普通に疲れた」「普通ってなんだろう」というモヤモヤは、SNSで日々誰かの人生と比較しがちな今の時代を生きるZ世代にとって、決して珍しい感覚ではないと思います。

この記事では、僕自身が「普通」という基準に縛られて苦しみ、そこから少しずつ抜け出していった体験をお話しします。就活、SNS、キャリアの遅れといった具体的な場面を振り返りながら、「普通」という言葉の正体と、その付き合い方について考えていきます。同じようにモヤモヤを抱えている方に、何かひとつでも気づきが届けば嬉しいです。

就活で気づいた「普通に就職する」という思い込み

就職活動を始めたころ、僕は「普通に大手に入って、普通に安定した生活を送る」ことを目標にしていました。エントリーシートには、自分でも信じていない「安定志向です」という言葉を並べていました。

面接で「なぜうちの会社を志望したのですか」と聞かれたとき、答えに詰まりました。理由を探ってみると、そこにあったのは「みんなが受けているから」「親が安心するから」という、自分の意思とは言えない動機ばかりでした。

このとき初めて、「普通」という言葉には実体がないのだと気づきました。誰か特定の人が「これが普通だ」と決めているわけではなく、なんとなく周りに合わせているうちに、いつの間にか自分の中に「普通というルール」が出来上がっていたのです。

面白いのは、同じ就活を経験していた友人に聞いても、彼の「普通」と僕の「普通」は微妙にズレていたことです。ある友人にとっての普通は「実家から通える範囲で働くこと」で、別の友人にとっての普通は「大学の偏差値に見合った会社に入ること」でした。つまり「普通」は、社会共通の基準ではなく、それぞれが育ってきた環境の中でこっそり作られた、極めて個人的な思い込みだったのです。それに気づいたとき、僕は自分が追いかけていたものの正体が、急に頼りなく感じられました。

「普通に就職する」という言葉ひとつとっても、人によって思い描く会社の規模も、働き方も、まったく違う。それなのに僕らは、その曖昧な言葉を鵜呑みにして、自分の意思を後回しにしてしまいがちです。

SNS疲れの正体は「普通」という架空の基準だった

就活が一段落したあとも、「普通」というプレッシャーは形を変えて追いかけてきました。今度はSNSです。

友人が結婚式の写真を投稿すれば「もう自分もこういう年齢か」と焦り、同期が転職して年収が上がったという投稿を見れば「自分は普通より遅れているのでは」と落ち込む。タイムラインに流れてくるのは、誰かが切り取った「うまくいっている瞬間」だけなのに、それを「普通の基準」だと錯覚してしまっていました。

冷静に考えれば、SNSに映るのはその人の人生のほんの一部分です。それなのに、僕らはその断片を集めて「みんなはこうしている」という架空の平均値を作り上げ、自分をそこに当てはめようとしてしまう。これこそが、「普通に疲れる」という感覚の正体なのだと思います。

実際、僕は一時期、投稿を見るたびに自分の生活と比較してしまい、何も投稿していない日でも気分が沈んでいました。試しにアプリを開く時間を減らしてみたところ、比較の材料そのものが目に入らなくなり、驚くほど気持ちが軽くなったのを覚えています。「普通」という感覚は、比較する対象があって初めて生まれるものなのだと、身をもって実感した出来事でした。

「普通じゃない」と感じたときに襲ってきた孤独

SNSでの比較に疲れ果てていたころ、さらなる転機が訪れました。それは、周囲より少し遅れて仕事を辞め、療養に入る決断をした時期でした。同世代の友人たちが着々とキャリアを積んでいく中、自分だけが立ち止まっているような感覚に襲われました。

家族に近況を話すたびに、「普通はこの年齢だったらこうしているものだよ」という言葉が、悪気なく飛んできました。その言葉自体は優しさから出たものだとわかっていても、聞くたびに自分の存在を否定されているような気持ちになったのを覚えています。

孤独だったのは、環境が変わったことそのものよりも、「普通のレールから外れた自分」を誰にも肯定してもらえないと感じていたことでした。誰かと比べて自分を測るクセが、ここまで自分を苦しめるものだとは思ってもいませんでした。

当時の僕は、平日の昼間に近所を歩くだけでも、周りの目が気になって仕方がありませんでした。「みんなは今頃働いているのに、自分だけ何をしているんだろう」と、必要以上に自分を追い詰めていたのです。今思えば、誰も僕のことなど気にしていなかったはずです。それでも「普通」という物差しを手放せずにいた自分は、見えない誰かの視線に、勝手に怯えていたのだと思います。

「普通」を手放すと、生き方の選択肢はこんなに広がる

そんな中で助けになったのは、SNSを通じて出会った「普通じゃない生き方」をしている人たちの存在でした。フリーランスで働く人や地方に移住した人と話す中で、「正解なんて自分で作ればいいんだよ」と言われたとき、肩の荷がスッと下りるのを感じました。彼らに共通していたのは、「普通じゃない自分」を悲観していないことでした。

彼らと話す中で気づいたのは、「普通」とは誰かが決めた正解ではなく、単に「多くの人がたまたま選んでいる選択肢のひとつ」に過ぎないということです。多数派であることと、正しいことは、まったく別の話なのです。

そう捉え直してから、僕は少しずつ「普通かどうか」ではなく、「自分にとって心地よいかどうか」を判断基準にするようになりました。仕事のペースも、人付き合いの距離感も、休日の過ごし方も、誰かの「普通」ではなく、自分の感覚を軸に選び直していきました。

不思議なもので、「普通」という物差しを手放した途端、これまで比較の対象にしていた友人や同世代の存在が、単純に「応援したい人たち」に変わりました。同じ土俵で競っているつもりだったからこそ苦しかったのだと、このとき初めて気づいたのです。

おわりに

「普通」という言葉は、便利なようでいて、実は誰の顔も見えない曖昧な基準です。それにもかかわらず、僕らはその見えない基準に合わせようとして、知らず知らずのうちに疲れてしまいます。

もし今、「自分は普通じゃないのかもしれない」と不安になっている方がいたら、一度立ち止まって、その「普通」が誰の基準なのかを考えてみてください。案外、それは誰のものでもない、ただの空気のようなものかもしれません。

「普通」に振り回されるのではなく、「普通」という言葉と適度な距離を保ちながら、自分自身の基準で選び取っていく。かなうラボで自分らしく記事を書いている今の僕は、そんな生き方を少しずつ実践できている気がします。これからの時代、そんな軽やかな生き方がますます必要になっていくのだと思います。