はじめに
みなさま、ごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。
「最近どう?」と聞かれるたびに、少し返事に困ってしまいます。不幸というわけではありません。でも、心から幸せだとも言い切れません。

そんな曖昧な感覚を抱えたまま、なんとなく毎日をやり過ごしている人は、きっと私だけではないと思います。今日は、そんな「特に不幸じゃない。でも、幸せとも言えない」という感覚について、自分の体験を振り返りながら綴ってみたいと思います。
1. 満たされているはずなのに、何かが引っかかる
仕事もあります。住む場所もあります。友人と呼べる人もいます。客観的に見れば、何も困っていないはずです。それなのに、朝目が覚めたときに休日に何も予定がなく過ごしているときなど、ふと感じる「このままでいいのかな」という小さな違和感が、なかなか消えてくれません。
不満があるわけではないのです。文句を言うほどのことは、正直何もありません。ただ、心のどこかにぽっかりと隙間があるような感覚が、ずっと続いている気がします。たとえば、休日の午後にぼんやりテレビを見ているときや、帰り道の電車に揺られているとき、ふとその隙間が顔を出してくるのです。そんな経験に、心当たりがある方も多いのではないでしょうか。
2. SNSの中の「幸せそうな人たち」と自分を比べてしまう
スマートフォンを開けば、旅行先で笑う友人、記念日を祝うカップル、昇進を報告する同期。みんな楽しそうで、充実していそうに見えます。それを目にするたびに、自分の日常が『自分も何かしなければ』と焦りを感じ、自分の日常がやけに地味に思えて、少し落ち込んでしまうことがあります。
でも、よく考えてみると、彼らの投稿は「一番良い瞬間」だけを切り取ったものにすぎません。24時間ずっと幸せなわけではないはずなのに、私たちはその一瞬だけを見て、自分の平凡な日常と比べてしまいます。この比較のクセこそが、「幸せとも言えない」という感覚を強めている一因なのかもしれない、と最近は感じています。
3. 「普通」という基準のあいまいさに気づいた瞬間
就職して、それなりの年齢になって、周りと同じようなペースで生きているつもりでした。けれど、あるとき友人との他愛ない会話の中で、結婚するのが普通なのか、しないのが普通なのか。安定した職に就くのが正解なのか、好きなことを追い続けるのが正解なのか。お互いの「普通」が全く違うことに気づき、ふと立ち止まってしまったことがあります。
誰かに明確な基準を示してもらったことは、一度もありません。それなのに、私たちはどこかで「普通」というものさしに自分を合わせようとしてしまいます。そのものさし自体が、実はとても曖昧で、人によってまったく違うものだと気づいたとき、少し肩の力が抜けたのを覚えています。
4. 小さな違和感を無視しなくなってから変わったこと
「不幸じゃないんだから、贅沢を言っちゃいけない。」そう自分に言い聞かせて、違和感に蓋をしていた時期がありました。でも、その違和感を無視し続けるほど、心は静かに、確実に疲れていくように感じました。
そこで試したのは、感情を「幸せ」か「不幸」かの二択で判断するのをやめることでした。楽しい日もあれば、ただ淡々と過ぎていく日もあります。それでいいのだと思えるようになってから、少しずつ呼吸がしやすくなった気がします。感情に無理やり名前をつけず、そのまま眺めておくようにしました。「今日は特に楽しいことはなかったけれど、嫌な日でもなかった」と思うだけで、不思議と心が軽くなる瞬間がありました。
5. 幸せの基準を、誰かではなく自分で決めるということ
結局のところ、「特に不幸じゃない。でも、幸せとも言えない」という感覚は、悪いものではなく、自分の中の基準がまだ定まっていないサインだったのかもしれません。誰かの人生と比べた「幸せそうな瞬間」ではなく、お風呂に入れない『風呂キャン』を乗り越えた時など、ちょっとした幸せを感じられるような、自分が心地よいと思える時間を、少しずつ積み重ねていくこと。それこそが、自分なりの幸せの形を見つける一歩なのだと思います。
おわりに
不幸でもなく、幸せでもない。そんな中間地点で立ち止まっている感覚は、決して特別なものではなく、多くの人が抱えているものなのだと思います。焦って答えを出そうとせず、たとえばたとえば『今日のコーヒーが美味しかった』とか『空がきれいだった』といった、ささやかな心地よさをひとつずつ拾い集めていく。そんな生き方も、悪くないのではないでしょうか。この文章が、同じような感覚を抱える誰かにとって、少しでも心が軽くなるきっかけになれば嬉しいです。
以上、ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。
またの機会にお会いしましょう。

