就労継続支援B型かなうラボ利用者の^^ackey^^です♪
今回は来月まで休暇を消化するため出番がない私が、今月最後にブログを上げさせて頂きますね^^
同じような経験をされている方、支える側に回ろうと頑張って勉強中の皆様にも是非一読して頂きたく思います。
しばらく私の体験談にお付き合いくださいね♪
では早速本題に入ります。

私が初めて心を病んだのは高校1年生の頃でした。
仲良しグループがいきなり分裂し、どちらにもつけなかった私は双方から攻撃を受け、とうとう病んでしまいました。。。
当時はストレスからか、頭から苔が生えてくるのではないか、という位、悩み苦しみました。
そして私は幻聴が聞こえるようになってしまったのです!
母が私の異変に気付き、病院へ連れて行ってくれました。
その時の診断は
「幻聴妄想状態」
という診断名でした。
最初は何が現実で何が幻聴なのか区別もつかず、あやつられ体験みたいな症状もありました。
高校1年生の頃は元気なグループにいたのですが、
高校2年生からは大人しいグループを選ぶようにしました。
複数の友達に
「こっちにおいでよ!」
と言われてもただ頭を横に振り、大人しいグループにい続けました。
それが功を奏したのか、部活も辞めることなく無事高校も卒業でき、短大にも進学できました。
部活は硬式テニス部だったので、母が心配して
「あーちゃん、部活辞めてもいいんよ。無理しなさんな。」
と言ってくれましたが、
「続けたい!」
と辞めませんでした。
顧問の先生には
「休みがちだから、後輩に試合を譲ってやってほしい。」
とちょっと心無いことも言われましたが、
「頑張りますから、お願いします!」
と食らいつきました。

短大に入学した私は、親元を離れ、甲府に住むおばあちゃんと生活をすることに。
短大はとにかく楽しく、友達と街を飲み歩いたりして、enjoyしました!
「合コン」なるものにもよく呼ばれました。
が病気はまだ続いていました。
短大時代は具合が比較的良かった記憶があります。
でも車での遠乗りが苦手だったり、お酒を飲むと病気が出たりで、世界は今と比べるとかなり制限されていました。
みんなのマスコット的な存在だった私ですが母にゼミの先生が
「娘さんを研究室に残したいのですがいかがですか?」
と声をかけてくれたのです!
母は私に
「研究室ってどうなん?」
と聞くので、
「300人の生徒を3人で見てるから大変そうだよ。」
と誘われているのもつゆ知らず本音を漏らしたら、母は
「わかったわ。そうなんね。」
と言いそのまま教授に伝えてしまい、私の研究室行きは無くなりました。。。

そして私は地元の信用組合に就職が決まり、研修を1か月ほど行いました。
仕事も楽しく、仲間たちとも打ち解けて楽しく研修を受けていたのですが、
いざ現場に出たら、いきなりのフルタイムの仕事、金融機関ならではのピーンと張り詰めた空気、ちょっとした先輩との行き違いで関係が少し悪化。
いろいろな要因で病気が強く出るようになり、入った年のGW後に退職。
それから療養のため、両親のもとに戻り家事手伝いをしていました。
当時はお風呂に入るのが苦手でテレビも1時間しか観れませんでした(具合が悪くて)。
5年ほど経ってから母に
「そろそろあーちゃんもアルバイトしてみる?」
と言われ、近所のレンタルビデオ屋さんの早朝バイトにチャレンジ♬
スタッフに守られて、とても可愛がってもらったのを覚えています。
そんなアルバイトも家族の転勤のため辞めざるを得なくなり、仕方なしに退職。
先輩には
「新しいところから通えない?」
とまで言ってもらえたのですが、始発電車の時間の関係上難しかったです。
その時も病気はありました。
隠しながら働くのは正直辛かったです。
30歳まではそんな感じで病気はクローズでアルバイトを転々としていました。

ここで私は転機を迎えます。
病院の先生が私が元気そうだとお薬をかなり減らしたんです。
そしたら体調が急変!
そううつになってしまったんです。
勝手にクレジットカードを作り、ローンを組んでみたり、家出をしたり。
両親は地獄だったと思います。
何が何だか分からなくなった私は両親を信じられず、入院することになります。
この入院が今から思えば人生を見直す良いポイントになったように感じます。
精神病院って、酷いところだと頭の中では思っていたのですが、案外快適で、相部屋のお姉さん達はみんないい人で、退院するときは色紙まで書いてくれました。
それから私は障がいがあることをオープンにして障がい者枠で働くことを決めました。
父が
「お前も30になったんだから、事務職に転向したらどうだ?」
と言ってきたので、
リハビリがてら病院のデイケアに通っていた私は、まず資格を取ろう!と一念発起しました。
漢字検定2級を取得。
その後ワープロで文字を打つ練習から独学で始めてP検3級も取得。

そしてデイケアを卒業して主人が働く郵便局に障がい者枠のパートで入社。
幻聴はまだ続いています。
でも障がい者枠、ということで多少は理解がありました。
郵便局って意外とバタバタしていて環境はあまりよくないんです。
私の所属していた計画課は配達員がガンガンいるところで事務作業をしなくてはならず、大変でした(窓口はそうでもないかもしれません)。。。
そんな環境下で仕事に打ち込めるはずもなく、幻聴も相まって2年弱で雇い止めになりました。
それでも主人は見放さず、私との関係は維持してくれました。
その後、就職難で悩む中、病院の担当のソーシャルワーカーさんに仕事が決まらなくて困っている、
と何度も相談したら、病院の売店勤務なら空いてるよ♪
と言われすぐのりました。
売店のスタッフは全員障がい者で、病院の患者でもありました。
いろいろありましたが5年勤めてから眼鏡屋さんのバックヤードで事務の仕事をするようになりました。
面接を受けた際は販売士3級保持者であることをアピールしたので、販売のアルバイトかと思ったら、店長が
「事務の仕事はできる?やってもらえないかな?」
というので、
「できます!」
と答え、適性検査も通り、無事採用されました。
「1人でやってもらう仕事だからね。」
と言われ、
「幻聴なんて言ってる場合じゃない、ひとり立ちしなくちゃ!」
と腹をくくったら、知らない間に幻聴は出なくなりました。
40歳の頃でした。

前記の売店時代に主人と結婚し、15年になります。
主人曰く
「どこが悪いんだろう?普通に見えるけど??逆に優しそうだし。」
と思いながら郵便局でも気にかけてくれていたようです。
私が主人と結婚した決め手は2つ。
⓵病気の時の対応方法
⓶「僕は結婚を前提にお付き合いしてるから。」という言葉
⓵は私の病気の特性をよく理解して合わせてくれるような会話をしてくれたんです。それが母そっくり で
「あ、この人の話し方居心地いいな」
って思えたんです。(今では全く出番がありませんが笑)
⓶は主人が通信の大学を卒業間近で忙しくて除籍になるところを私がお尻を叩いて
「卒業しなさいよっ!」
って背中を押したのがきっかけで出た言葉のようです。

あっという間に四半世紀振り返りましたが、いかがでしたか?
なにか汲み取って頂けたものはありましたか?
思春期の思い出、病気、仕事、恋愛。
たくさん綴らせていただきました。
しばらくお休みを頂き、8月からまたブログを再開いたしますが、
「こういう人が上げてるんだ、このブログ。」
みたいにちょっと思ってもらえれば幸いです。
最後まで閲覧頂きありがとうございました。
では、また!
