はじめに
みなさまごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。

スマホの画面をスクロールするたびに、誰かの結婚報告や、マイホームの写真や、「昇進しました」という投稿が流れてきます。そのたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えたことはないでしょうか。特別な人生を求めているわけではないのに、ただ「普通」でいたいだけなのに、それがいちばん手に入りにくいものに思えてしまいます。今日は、そんな感覚とどう向き合ってきたか、私自身の話をしてみようと思います。
SNSを開くたびに感じる、置いていかれる感覚
就職して数年が経った頃、同級生たちのSNSを見るのが少しずつ苦しくなっていきました。結婚式のアルバム、新しく買った車、昇進の報告。悪気なく流れてくるそれらの投稿を見るたび、比べるつもりがなくても、つい自分の現状と比べて落ち込んでしまうのです。当時の私は決まった仕事の形にうまく馴染めず、生活のリズムも周りとずれていました。同じ年に生まれて、同じように歳を重ねているはずなのに、どうしてこんなに違う場所にいるのだろうと、何度も自分に問いかけていたのを覚えています。
「普通」という言葉の重さに気づいた瞬間
ある日、家族から「高望みはしないから、普通に働いて、普通に結婚して、普通に暮らしてくれればそれでいいのよ」と言われたことがあります。。悪意のない、むしろ優しさから出た一言でした。けれど私は、その「普通」という言葉がどれほど重いものかを、そのとき初めて実感しました。安定した仕事に就くこと、決まった時間に出勤すること、いずれ家庭を持つこと。多くの人にとっては当たり前の道筋なのかもしれません。でも私にとっては、手を伸ばしても届かない、輪郭のぼやけた理想のようなものでした。誰かが決めた基準ではないはずなのに、いつの間にか私はそれを、越えなければならないハードルのように感じていたのです。
比べるほど遠ざかる「普通の幸せ」
焦りが強くなるほど、私は周りと自分を比べる回数を増やしていきました。友人のボーナス額、同期の役職、SNSに映る誰かの休日の過ごし方。比べれば比べるほど、自分の生活のどこかが欠けているように思えてきます。そうして比べることをやめられない自分にも、少しずつ苛立ちを感じるようになっていきました。幸せになりたいだけなのに、比べることで自分から幸せを遠ざけているのです。そのことに気づいたときには、すでに長い間、同じ場所をぐるぐると回っていたように思います。
「普通」を手放してみたら見えたもの
転機になったのは、事業所のスタッフの方との何気ない会話でした。「mayoさんにとって、心地よい一日ってどんな一日ですか」と聞かれたとき、私は答えに詰まりました。誰かの基準ではなく、自分の感覚で「良い一日」を思い浮かべたことが、それまでほとんどなかったからです。それから少しずつ、自分の生活のペースや得意なこと、無理なくできる働き方を見つめ直すようになりました。世間一般の「普通」というものさしを一度脇に置いてみると、例えば、朝に温かいお茶をゆっくり飲む時間など、これまで見えていなかった自分にとっての小さな心地よさに気づけるようになったのです。
自分のペースで歩くということ
今の私は、決して周りと同じ道を歩いているわけではありません。それでも以前より、生活の中にふと落ち着きを感じる瞬間が増えました。「普通」というものは、もしかしたらどこにも確かな形として存在していないのかもしれません。それぞれが自分の生活の中で、自分なりの「普通」を作っているだけなのだと、今は思っています。もし今、誰かの人生と自分を比べて苦しくなっている方がいたら、その比較の基準そのものが、実はとても曖昧なものだということを、少し思い出してみてほしいです。
おわりに
「普通の幸せ」が遠く感じるのは、あなたが何か間違っているからではありません。むしろ、それだけ丁寧に自分の人生と向き合っている証なのだと思います。焦らず、比べず、自分のペースで、自分にとっての心地よさを一つずつ見つけていくこと。そんな歩き方も、きっと悪くないはずです。あなたが今、自分のペースで深呼吸できているなら、それが一番の幸せなのだと思います。
以上、ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。
またの機会にお会いしましょう。


