第一章 いつの間にか口癖になった言葉
みなさまごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。
「それは自己責任でしょう」——気づけば私たちは、この言葉をあまりにも当たり前のように口にするようになっていました。
ニュースのコメント欄、職場の何気ない会話、身近な人とのやり取りのなかにまで、その冷たい響きは静かに浸透しています。

誰かがつまずいてしまったとき、思いがけない困難に直面したとき、あるいは心からの助けを求めたとき。
私たちは反射的に、「自己責任」という一言でその出来事を片付けてしまっていないでしょうか。
深く考える必要もなく、相手の事情に心を寄せる手間も省ける。
あまりにも手軽で、あまりにも便利な言葉です。
けれども、少し立ち止まって考えてみたいのです。
もし自分が同じ立場に置かれていたとしても、本当に「自己責任」の一言だけで納得できるでしょうか。
そして私たちは、誰かの事情を十分に知らないまま、その言葉を口にしてはいないでしょうか。
第二章 自己責任論が育ってきた背景
「自己責任」という考え方が広がってきた背景には、社会の変化があります。
昔のように大家族や地域で支え合うことが減り、個人が自分の選択や生活に責任を持つことは、以前にも増して求められるようになりました。
「自分のことは自分で決める」
「自分の人生は自分で切り開く」
こうした考え方そのものは、決して否定されるべきものではありません。
誰かの敷いたレールではなく、自分の意志で考え、選択することには大きな意味があります。
しかし、その意識が強くなりすぎると、私たちはいつの間にか別の罠に囚われてしまいます。
それは、目の前で困っている人を見たときにも、「自分で選んだ道なのだから仕方がない」と切り捨ててしまう冷たさです。
事故や病気、環境の変化など、本人の努力だけでは避けきれない出来事があります。
私自身や周囲の方々を見ていても、そう痛感することがあるのです。
それでも私たちは、ときに「もっと注意していれば」「本人の選択だったのだから」と、結果だけを見て判断してしまいます。
けれど、人生には自分では選べないものもあります。
生まれ育った環境、経済状況、周囲の人間関係、健康状態、そして偶然。
人は、最初から同じ条件で人生を始めているわけではありません。
第三章 自己責任論の落とし穴
自己責任という言葉の本当に恐ろしいところは、それが社会の中で強い立場にいる人たちにとって、あまりにも都合のよい逃げ道になってしまう点です。
支援の手を差し伸べるべき立場の人々は、「自己責任なのだから仕方がない」と唱えることで、助けない自分を正当化してしまいます。
社会の仕組みを作る側は、制度の隙間からこぼれ落ちてしまった人を「本人の努力不足」という一言で片付け、構造そのものを見直す責任から目をそらしてしまいます。
そして、声を上げたくても上げられない、か弱い立場の人ほど、この冷たい言葉の前に沈黙を強いられていくのです。
もちろん、すべての問題を社会のせいにすればいいわけではありません。
しかし逆に、社会の中で起きる困難をすべて個人の責任として片付けることにも、無理があります。
同じ努力をしても、同じ結果になるとは限らない。
同じ失敗をしても、そこから立ち直るために使える資源は人によって違う。
それが現実です。
それにもかかわらず、「自己責任」という一言を使えば、そこにある複雑な事情を見なくても済んでしまいます。
だからこそ、この言葉は便利なのです。
そして、便利だからこそ、慎重に使わなければならないのだと思います。
第四章 本当の意味での責任とは
もちろん、自分の行動に責任を持つこと自体は、大切な価値観です。
何でも他人のせいにしたり、社会のせいにしたりすることが正しいわけではありません。
自分の人生について考え、自分にできることを探し、選択した結果を引き受ける。
そうした姿勢は、誰にとっても必要なものです。
では、私たちが目指すべき本当の意味での責任とは、一体何なのでしょうか。
それは決して、「失敗した人を冷たく切り捨てること」などではありません。
むしろ、自分自身の弱さや限界をも正直に受け止め、そのうえで、今自分に何ができるのかを模索することではないでしょうか。
そしてその責任は、自分自身に向かうだけにとどまりません。
誰かが深い困難に直面したとき、その背景にある事情に思いを馳せること。
本人個人の努力だけではどうにもならない問題があるのなら、社会の制度や環境そのものに欠陥がないかを疑うこと。
そして、自分にできる範囲でそっと手を差し伸べること。
そうした誠実な姿勢こそが、同じ社会の中で生きる私たち一人ひとりの、本当の意味での責任なのだと私は思います。
第五章 支え合うことは弱さではない
「自己責任」という言葉が社会に広まる一方で、私たちが決して忘れてはならないのは、人間は誰も一人だけで生きているわけではないという事実です。
誰かに助けを求めることは、決して恥ずかしいことでも、甘えでもありません。
どんなに気丈に見える人であっても、人生のどこかで、自分一人ではどうにもならない深い壁にぶつかる瞬間があります。
そして今、誰かを支える側にいる人もまた、いつの日か誰かの支えを必要とする側になるかもしれません。
だからこそ、人と人とが支え合うことは、決してどちらか一方だけの施しなどではないはずです。
困ったときに素直に助けを求められること。
困っている人が目の前にいたときに、自分にできる範囲でそっと手を差し伸べられること。
そうした温かな関係性があるからこそ、人は何度失敗しても、再び立ち上がって歩き出すことができるのです。
「自己責任」という冷たい言葉で人と人との間に線を引いてしまう前に、どうか一度だけ立ち止まってみてください。
「いま、この人にはどんな事情があったのだろう」
そのように相手の立場に思いを馳せるだけでも、私たちの目に映る世界は少しずつ違ったものに変わっていくはずです。
第六章 結びに
「自己責任」という言葉は、使い方によって、人を切り捨てる刃にもなれば、自分自身を律する支えにもなります。
だからこそ、問題なのは「自己責任」という言葉そのものではないのかもしれません。
その言葉を、誰に、どんな状況で、どのような意味で向けるのか。
そこを考えずに使ってしまうことが、最も危ういのです。
自分の行動には責任を持つ。
同時に、自分ではどうにもできない問題を抱えている人を、簡単に切り捨てない。
その両方を大切にすることは、決して矛盾していません。
便利な言葉ほど、慎重に使いたい。
誰かを責める前に、その人が立っている場所を見る。
そして、自分が同じ立場だったらどうするだろうと、一度だけ考えてみる。
その小さな想像力こそが、人と人との間にある見えない壁を少しずつ取り払っていくのではないでしょうか。
「自己責任」という言葉を使う前に、私たちが問うべきなのは、
本当に、その人だけの責任なのか。
そして、自分には何ができるのか。
その二つをそっと心に留めておくことが、優しい社会への第一歩なのだと思います。
以上、ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。
またの機会にお会いしましょう。


