はじめに
みなさまごきげんよう。
就労継続支援B型事業所かなうラボ利用者のmayoです。
「今、幸せ?」と聞かれると、言葉に詰まってしまう。そんな感覚を胸の奥に抱えたまま、なんとなく毎日をやり過ごしている人は、意外と多いのではないでしょうか。

不幸だと言い切れるほど、何かに追い詰められているわけではありません。かといって、胸を張って「幸せです」と答えられるわけでもない。ただぼんやりと、可もなく不可もない日々が積み重なっていく。この記事では、そんな「特に不幸じゃない。でも、幸せとも言えない。」という感覚の正体を、自分自身の体験を辿りながら言葉にしてみたいと思います。同じようなモヤモヤを抱えている方にとって、少しでも心が軽くなるきっかけになれば嬉しいです。
第1章:平熱の毎日に、小さな違和感が生まれた朝
きっかけは、なんの変哲もない平日の朝でした。目覚ましで起き、身支度を整え、いつも通りの時間に家を出る。学校でも仕事でも大きなトラブルはなく、友人関係も穏やかなまま。むしろ「順調」と呼んでいい暮らしを送っていたはずでした。
それなのに、駅のホームで電車を待つほんの数分間、ふと「このままでいいのかな」という思いが胸をよぎったのです。何か辛い出来事があったわけではありません。強いて言うなら、心が凪いだ状態があまりに長く続き、その凪ぎ方そのものに違和感を覚えた、という言い方がしっくりきます。
嬉しいことがあれば素直に嬉しいし、疲れた日はちゃんと疲れを感じる。感情そのものが壊れているわけではないのに、一日を振り返ったときに残る余韻はどこか薄い。まるで温度を失った毎日を過ごしているような感覚が、少しずつ心の底に積もっていきました。
第2章:SNSを開くたび、比較のスイッチが入ってしまう
この感覚をより濃くしたのは、間違いなくSNSの存在でした。友人が旅先で笑っている一枚、同世代が新しい挑戦を始めたという報告、きらめく瞬間だけを切り取った投稿。それらを眺めているうちに、自分の毎日がひどく平坦なものに見えてくるのです。
不思議なのは、自分の暮らしに強い不満があるわけではないという点でした。それでも、他人の「充実していそうな瞬間」と自分の「なんでもない瞬間」を並べてしまうと、後者は途端に色あせて見えてしまう。これは客観的な幸福度の差ではなく、比較という行為そのものが生み出す錯覚に近いものだったのだと、今なら分かります。
当時の自分は、その錯覚に気づかないまま「取り残されているのは自分だけ」という感覚を抱えていました。誰かに劣っているわけではないのに、ただ比較するという行為だけで、心の中に薄いモヤがかかっていったのです。
第3章:「普通」という基準の、正体不明な圧力
もうひとつ当時の自分を悩ませていたのは、「普通」という言葉でした。普通に働き、普通に休日を過ごし、普通に人間関係を築く。その「普通」に自分は当てはまっているはずなのに、なぜか安心できない。
よくよく考えれば、「普通」という基準は誰かがはっきり定めたものではありません。それなのに、私たちはどこかで、輪郭さえない基準に自分を合わせようとしてしまう。普通であることに安心したいのに、普通であること自体がどこか物足りなくも感じられる。この矛盾した感覚こそが、「不幸ではないけれど、幸せとも言い切れない」という状態を生み出していたのだと、振り返るほどに思えてきます。
仕事も友人関係も休日の過ごし方も、これといった問題はない。けれど、その「問題のなさ」だけでは満たされない自分がいる。周囲に歩調を合わせているつもりが、いつの間にか、自分自身の感覚とは少しずれた場所に立っていたのかもしれません。
第4章:幸せの基準を、他人から自分の手に取り戻す
このモヤモヤと向き合い始めたとき、ひとつの気づきがありました。それは、自分が「幸せかどうか」を測る物差しを、いつの間にか他人や社会に預けてしまっていた、ということです。
旅行に行けていないから充実していない。特別な出来事がないから満たされていない。そう感じていたのは、幸せの形を外側からそのまま借りてきていたからでした。誰かにとっての幸せをなぞろうとすればするほど、自分の日常はますます物足りなく映ってしまいます。
そこで試してみたのが、一日の終わりに「今日、少しでも心地よかった瞬間」を思い出すことでした。特別な出来事である必要はまったくありません。コーヒーの香りが良かった、誰かとの会話でふと笑えた、それだけで十分です。小さな心地よさを一つずつ拾い集めていくうちに、幸せとは大きな出来事だけで測るものではないと感じられるようになっていきました。
第5章:「どちらでもない」を、無理に否定しなくていい
そしてもうひとつ気づいたのは、「特に不幸じゃない。でも、幸せとも言えない。」という状態そのものを、無理に白黒つけなくてもいいということでした。
私たちはつい、幸せか不幸かという二択で自分の状態を判断しようとしてしまいます。けれど実際の心の状態は、もっとグラデーションのある、揺らぎに満ちたものです。今日は少し心地よかった、明日は少し物足りなかった。その揺れをそのまま受け止めていいのだと思えたとき、はじめて心がふっと軽くなった感覚がありました。
「どちらでもない自分」を否定せず、ただそこにある感覚として静かに認めること。それは諦めではなく、自分の心と正直に向き合うための、ささやかな第一歩だったのだと思います。
おわりに
「特に不幸じゃない。でも、幸せとも言えない。」という感覚は、決して特別なものではなく、多くの人がどこかで抱えているものなのかもしれません。それは心が壊れているサインではなく、むしろ自分の日常と丁寧に向き合おうとしているサインとも言えるのではないでしょうか。
大きな出来事がなくても、日々の中には小さな心地よさがきっと隠れています。その一つひとつを拾い集めていくことが、いつか「幸せ」と呼べる感覚へとつながっていくのかもしれません。もし今、同じようなモヤモヤを抱えているなら、無理に答えを急がず、まずはその感覚をそのまま受け止めてみてください。きっとそこから、少しずつ景色が変わっていくはずです。
以上、ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。
またの機会にお会いしましょう。


